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日本がアメリカと戦争した?!


2010
05.18

日本とアメリカが戦争をしたという歴史を現在の日本人は忘れかけている。

「日本はアメリカと戦争をした事があるのよ」
「えっ!うそ~。で、どっちが勝ったの?」
「日本が負けたのよ」
「な~んだ。負けちゃったのか。日本が弱かったから?」
「ううん、日本が悪い事をしたから天罰だったの」
「へ~、じゃあアメリカの兵隊さんは正義の味方ってこと?」
「….」
「でも、なんで日本はアメリカと戦争をしたの?」
「……..」

こういう会話をする国民は世界中で日本人だけだろう。戦争に負けてもその原因が自分たちが悪かったからだ、などと思う国民は他にはいない。

そもそも、子供に「何故日本はアメリカと戦争をしたのか」と聞かれて、ちゃんと答えられる親がいるか? 日本人は戦争に負けて、戦争に関する思考を停止してしまったのだ。 もちろん、日本を占領統治したアメリカ軍が7年もの歳月をかけて日本人を従順な馬鹿にしたからでもある。

歴史とは脈々と流れる人間の営みの連続である。 戦争もその過程に発生する必然的なものだ。 決して後の世の人間が小賢しく非難できるものではない。

日本がアメリカと戦争をする事になった遠因は「明治維新」に始まっている。なぜ日本は幕藩体制から明治維新を経て大日本帝国にならなければならなかったか。徳川幕府はなぜ政権を朝廷に返還したのか。 それは文明開化や近代化、西欧化を単に目指したからではない。 全ては西欧白人種の侵略から自国を守るためだったのである。

日本の室町時代末期から幕末にかけての時代はスペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ドイツ、ロシアの白人種(キリスト教徒)が他の世界を侵略していた時代だ。彼らのやり方はキリスト教の布教という名目で宣教師を派遣してアフリカや東南アジア諸国を調査し、その後軍隊を送って植民地にすると云うものだった。 白人種は人種差別を平然と行い、有色人種を下等な人種として扱った。その典型が黒人種を奴隷にした事だ。植民地では原住民を無教養のまま労働力として酷使した。キリスト教徒にとって異教徒は人間の姿をした家畜でしかなかったのだ。

日本にも戦国時代(室町時代末期)にポルトガルやスペイン、オランダの宣教師たちがキリスト教の布教にやってきた。しかし日本は武士が政権を担っていたため簡単には侵略できなかった。しかも秀吉や家康は彼らの目論みに気づき、キリスト教の布教を禁止し、宣教師たちを追放した。彼らは貿易の担い手でもあったため日本は鎖国状態になっていったのである。

日本が鎖国状態の時代にはイギリス、フランスが世界を席巻していた。彼らの新たなやり方は自由貿易の名目で強制的に開国させ、その実、暴利を貪るというものだった。彼らが最後に狙ったのは中国だった。当時は清帝国だ。イギリスはアヘン戦争を経て香港を100年間借りるという名目で奪い、アロー戦争ではフランスと共謀して清帝国の植民地化を進めた。西洋列強の租界地入り口にはこう書かれてあった。「中国人と犬は立ち入り禁止」。これが白人種の植民地政策だったのである。彼らは武器と麻薬を売り、植民地の物産をヨーロッパへせっせと運んだ。特にインドの紅茶、中国の緑茶、東南アジア諸国の香辛料が有名である。

いよいよ白人種は日本にやってきた。最初は捕鯨のための補給地として寄港を求めての事だったが、当時の徳川幕府は「異国船打払令」を出し追い返していた。しかし植民地獲得でイギリスやフランスに後れを取っていたアメリカは中国侵略の足がかりとして日本に開国を求めてきたのだ。日本が軍事政権だったために侵略は最初から諦めていた。しかし幕府は軍艦の威力に圧倒され不平等条約を結んでしまい、その後イギリス、フランス、ドイツ、ロシアとも同じように不利な条約を結んでしまった。

ペリー来航の3年前(1850年)に中国でキリスト教徒を主力とした太平天国の乱が起きていた。西洋列強の侵略戦争に負けた清帝国が賠償金を払うために国民に重税を課した事がきっかけで起きた大規模な内乱である。この内乱で2000万人が犠牲になったという。1862年に幕府は御用船千歳丸というイギリスから買い取った船を上海に派遣した。交易が表面上の理由であったが清朝の情報収集が本当の任務だった。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならんでいる。太平天国の乱は1864年にイギリス、フランスなどの支援を受け鎮圧された。

当時の武士階級は西洋列強の侵略性と中国の対応をしっかりと学んでいた。幕藩体制ではいずれ中国の二の前になると危機感を抱いた彼らは改革を始めたのだ。それが明治維新なのである。支配階級であった武士が自ら既得権を放棄して四民平等の近代国家を目指したのだ。それは国民が一致団結して外国の侵略から自国を守るために必要だったからだ。白人種の脅しに屈しなかった有色人種は日本人だけだったのである。

明治政府は近代国家を目指し、国力を高めて軍事力を強化した。徳川幕府が締結してしまった不平等条約を改定する事が最優先だった。白人種と対等になれなければ平等な条約は結べなかったからだ。中国に植民地(租借地)を持っている白人諸国は、いずれ朝鮮半島を経て日本にたどり着く。そうならないためには朝鮮半島を押さえておかなければならない。明治政府は正式に朝鮮に対して国交を打診した。しかし朝鮮は中国でしか使えない「皇」の文字を天皇という称号に使っているという理由で国交を拒否してきた。朝鮮の李王朝には世界の情勢が見えていなかったのだ。

日本はあくまで朝鮮には独立国家でいる事を求めた。そうならなければいずれ朝鮮半島も白人諸国に乗っ取られると考えたからだ。朝鮮国内でも大院君と閔妃(高宗妃)の権力闘争が激化し、攘夷を叫ぶ大院君を追放した息子の高宗妃・閔妃が政権を取った。しかし朝鮮は一向に国交を結ばなかった。日本は先んじて日清修好条規を締結し、朝鮮には軍事的圧力をかける事にした。黒船の例にならったのだ。江華島沖に沿岸調査とうたって停泊中の日本軍艦をいきなり朝鮮が砲撃した。この事件をきっかけにやっと朝鮮は日朝修好条規を結ぶことになった。この条規は朝鮮が初めて自国の判断だけで結んだ外交条約である。第1条には朝鮮の独立を明記しているが朝鮮にとっては不平等条約であった。

閔妃は親日的になり日本軍人を顧問に迎えて軍の近代化を図った。しかし旧軍をほったらかしにしたため任午軍乱が勃発する。閔妃は清国に鎮圧を要請した。甲申政変(改革派の独立クーデター)の際も鎮圧平定するために清朝の支援を仰ぎ、閔妃は親日から事大主義へ転換していった。東学党の乱が起きた際には閔妃は清朝と日本に援軍を求めた。その後清朝と日本の対立が激化、日清戦争に発展したのである。日本が清朝に勝利し朝鮮の独立を勝ち取ったが、勢力を失っていた閔妃はロシアの援護を受けて権力に復帰し、ロシアはフランスとドイツを巻き込んで三国干渉を日本に突きつけた。国力の差に日本は泣く泣く干渉を受け入れた。このことをきっかけにロシアの半島進出はあからさまになっていった。

ロシアの南下政策に最も危機感を抱いたのはイギリスであった。イギリスはロシアの南下政策に対抗するために日本を利用する事にした。そうして世界を驚かす日英同盟が実現する。アメリカも日本の朝鮮半島での権益を認め、フランス以外の列強諸国が日本の支持を表明したため日本はロシアと交戦する決心をしたのだ。このとき最も日本を支援したのは世界中のユダヤ勢力であった。帝政ロシアはユダヤを迫害する最右翼だったのだ。イギリスで戦時公債を売って戦費を作るのに苦労した日本を助けたのはユダヤ系アメリカ人ヤコブ・シフだった。彼は戦費の半額に当たる戦時公債を購入したのだ。

日露戦争は有色人種が白人種に勝った最初の戦争である。ロシアに迫害されていた諸国は喝采した。今でも北欧では東郷平八郎元帥が最も有名な日本人である。しかしアメリカは日本の強さに驚き対日戦争を目標にオレンジ計画を練り始める。この頃アメリカでは移民排斥運動が盛んだった。最初は中国人が排斥された。日露戦争後は日本人が排斥の対象になった。

南満州鉄道株式会社は日露戦争の勝利の結果、ロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線・長春 – 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東) – 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていた。

ハリマンはニューヨーク出身の銀行家で、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者でもあった。ヤコブ・シフと共に日露戦争中には日本の戦時公債を1人で1千万円分も引き受け、ポーツマス条約締結直後に訪日して、1億円という破格の財政援助を持ちかけて、南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。日本側も乗り気で1905年にポーツマス条約で獲得した奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定を結んだが小村寿太郎外相の反対により破棄されてしまった。ハリマンの夢は自身の鉄道が世界一周をすることだったという。

1910年当時極貧と云われた朝鮮を併合する事になった日本は莫大な資金を使う事になる。欧米の植民地政策は現地から搾取する事が目的だったが、日本は朝鮮を近代化するために投資せざる得なかったのだ。当時の朝鮮には病院も学校もダムも発電所も上下水道すらなかったからだ。焼き畑農業が主だったため山々は禿げ山だらけだった。日本は延べ5億本もの植林をして現在の緑の山々を作ったのである。

ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発(1914年)すると日英同盟に基づき日本にも参戦の要請があった。日本陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略し、日本海軍は、太平洋のドイツ植民地だった南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島、マーシャル諸島-当時は『ドイツ領マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島』と呼ばれた。)を攻略し、これを制圧した。日本国内は戦時特需のお陰で成金が巷にあふれた。

日露戦争時同様、戦時下においては日本の陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜を丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。因みに敷島製パンの創業者盛田善平がドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜にパン製造を教えられパン製造事業に参入したと云う逸話がある。

英仏露からは主戦場であるヨーロッパ戦線への帝国陸軍の派遣要請もあったがこれは拒否している。また、イギリスより要請があった日本海軍の地中海への出兵も断った。しかし、日本海軍は、連合国からの再三の要請を受け、イギリスやフランスなどが持つ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年には、Uボートを中心とした無制限潜水艦作戦により輸送船の撃沈が続いていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けている。

特に、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。地中海には巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。この功績が認められ日本は国際連盟の常任理事国になった。

1917年10月に、連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になってロシアへの出兵の余裕がないイギリス、フランスから、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診された。1919年に日本はアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施することにした。しかし、アメリカが対日戦争を想定しているとは知らず、日本は仮想敵国をロシア(後のソ連)と設定していため、他国が撤兵後もシベリア出兵を継続したことから各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。また、シベリア出兵の継続により、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれアメリカの対日感情はますます悪化したのである。


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