6月 13 2015

朝鮮という厄介者

朝鮮という国はとにかく面倒な国だ。支那が元朝の時代には朝鮮は高麗朝だったが、屈服させられて元寇の手先になった。手先と言っても、対馬の島民をむごたらしく殺しまくり、元軍と一体だったのだ。だが、鎌倉武士の必死の抵抗で九州へは上陸できず、折からの台風で船が沈んで2度にわたる侵略は失敗した。「神風」の起源である。

支那の元が明に滅ぼされ、明朝と結託した高麗軍の将軍だった李成桂がクーデターを起こして高麗を滅ぼし、自ら即位したのが李王朝だ。明朝から賜った朝鮮を国名とした。李氏朝鮮は儒教を国教として仏教を迫害した。現在の北朝鮮は李氏朝鮮の再来と言われている。

李氏朝鮮は支那の王朝変遷にもかかわらず、常に朝見し属国の立場を変えなかった。ほんの一握りの貴族が国民から搾り取るだけの政治で、しかも国民の半数は奴隷だった国情があったからだ。世界でも最極貧の国と言われていた。

明治維新後成立した明治政府から、国交のため正式な国書を李氏朝鮮に送ったところ、李氏朝鮮は再三拒絶して受け取ることすらしなかった。日本からの国書に「皇」や「勅」などの支那皇帝しか使えない文字があったからだという。日本がそのような文字を使うことを身の程知らずで無礼だと言うのだった。このことが日本では征韓論に繋がっている。「清朝の属国でしかない朝鮮が偉そうに」と当時の元武士階級は思ったのだ。

明治政府は朝鮮問題は棚上げにして、清朝と正式な条約を結ぶ交渉をした。日清修好条規は日本と清朝の国交を正式に取り交わした平等条約であった。宗主国清との条約締結は実現したが李朝は鎖国状態を解かず、頑なに国交を拒否していた。このままでは李朝が西欧列強に侵略されることは時間の問題と思われた。

日本はやむを得ず、脅してでも朝鮮の開国を迫ることにした。朝鮮沿岸海域の調査と称して砲艦2隻を派遣して示威活動をしたのだ。案の定朝鮮は江華島付近でいきなり砲撃をしてきた。日本軍は反撃して永宋島の要塞を占領し砲台を武装解除した。

江華島事件の事後交渉で李朝はやっと交渉に応じるようになった。日本海軍の力を知ったからだ。日本は李朝には譲歩はしないこととしたが、西欧の干渉を招かないように貿易港の解放と領海の航行の自由と事件の謝罪を要求することにした。賠償要求はしなかった。決裂の準備をしながら修好条約を結ぶ交渉をしたのである。

9年もかかった李朝との国交が締結されたが、内容は不平等条約であった。清朝と平等な条約を結んでいたため属国李朝とは平等というわけにはいかなかったのだ。しかし初めて李朝を独立国として認めた条約であった。ところが李朝は体面だけにこだわり内容には無関心だった。そのため日本に有利な条約になった。

日朝修好条規の締結後清朝は朝鮮に対する干渉を強めることになった。欧米列強も李朝の開国を迫るようになった結果、李朝は開国することになった。しかし李朝内部では国王高宋の后閔妃一族と高宋の実父大院君一派の権力闘争が表面化し、閔妃一族が日本に見習って軍事の近代化を図り育成した別技軍と旧軍との待遇の違いが不満を呼び、そこに乗じた大院君一派が扇動した反乱が起きた。反乱軍は暴徒と化し、日本の軍事顧問などを襲った。日本公使館も襲われ多数の日本人が犠牲になった。

閔妃はいち早く王宮を脱し、朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱に保護を求めた。袁世凱は清国軍を反乱鎮圧に差し向け、大院君を補足軟禁した。清国軍は漢城に駐留し、以後袁世凱が朝鮮の政治・外交を握ることとなった。日本も軍隊を派遣し、朝鮮とは済物浦条約を結び、日本公使館の警備を以後日本軍がすることになった。大院君はその後3年間、清国に連れ去られ拘束された。

日清戦争の切っ掛けになった東学党の乱は、李朝を牛耳っていた閔妃一族の重税政策と両班による賄賂と不正収奪が原因だ。全羅道古阜郡の郡守が税金の横領を働き、訴え出た農民が逆に逮捕される事件を切っ掛けに東学党の指導者が武力蜂起した。反乱軍は全州一体を支配下に置いた。

閔氏政権は自分たちではどうにも出来ず、清国に乱の鎮圧を要請した。日本も天津条約に基づいて公使館警護と邦人保護の名目で出兵する。日清両軍が漢城近郊で対峙する中、大院君がクーデターを起こし閔氏政権は追放され、金弘集政権が誕生した。金政権は内政改革を進め、日本に対して清国軍の掃討を依頼した。

清国海軍と日本海軍との遭遇があった後、両国は正式に宣戦布告する。

日清戦争の大勢が決していた頃に、東学党が第2次の武装蜂起をした。今度は新政権と日本軍が標的だった。この蜂起には大院君一派が関係していた。大院君は清国軍を日本軍に駆逐させておいて、更に農民軍を扇動して日本軍を襲わせようとしていたのだ。しかし農民軍の蜂起は日本軍の敵ではなくあっけなく鎮圧された。

日清戦争の結果、朝鮮は清国の属国から晴れて独立国・大韓帝国となった。しかし大韓帝国にとっては独立国である意味が全く解っていなかった。自分たちは昔から独立国だったと思っていたからだ。それに昔から軽蔑していた日本に牛耳られることには我慢できなかった。

大韓帝国は日本が清国から獲得した遼東半島の利権を、ロシアの干渉で返還したことから、日本を見くびり、ロシアを頼ることにした。当然日本に負けた清国は朝鮮にとって、もはや大国ではなかった。ロシアは事のついでに、李鴻章などに賄賂を送り、旅順と大連を租借することに成功する。

大院君と閔妃の権力闘争は互いに暗殺を計画する泥沼状態になった。そんな中、閔妃が暗殺される。すると高宋は暗殺を恐れてロシア公使館に逃げ込んでしまう。ロシアは完全に朝鮮をその影響下に置くことになった。

一方清国では日清戦争の結果、無力さが露見して西欧列強は次々に清国を切り取り始めた。そのため清国で外国人の排斥をする反乱が起きた。義和団の乱だ。清朝末期には食料を求めて、施しをするキリスト教の教会に帰依する支那人が巷に溢れていた。カトリック信者は西欧列強に保護されることが多く、支那人の外国人排斥の標的になった。あまりに義和団の勢いが強くなったっため清朝の西太后は義和団を味方にすることを選び、西欧列強に対して宣戦布告するに到る。

日本を含めた西欧列強8カ国が軍隊を派遣し、連合軍として義和団の鎮圧をすることになった。義和団の乱は鎮圧され清国は莫大な賠償金を列強に支払うことになった。また、乱鎮圧のどさくさに紛れて、ロシアは満州を占領して居座ってしまう。日本とイギリスはロシアの撤兵を強く求めたが、3度に分けて撤兵すると言ったロシアは1度の撤兵をしただけで居座り続けた。

ロシアの侵略の意思に危機感を持ったイギリスと日本は世界が驚く軍事同盟を結ぶことになった。日本は朝鮮半島を守るべくロシアと交渉を続けたが、ロシアは日本の10倍にもなる軍事力を背景に、半島の半分を要求してきた。ここに日本はロシアと戦火を交える決意をすることになる。

日露戦争は世界が注目する戦争だった。白人種の大国と東洋人の小国との初めての戦いだったからである。日本が勝つとは誰も思っていなかった。日本も初戦でロシアを叩き、早急に和解するつもりで始めたのだ。そのためあらかじめアメリカに仲介を依頼していた。しかしアメリカが支那の利権を巡り反日感情を持っていたことに気が付かなかった。

奇跡的な勝利で日露戦争に勝った日本は、朝鮮半島どころか満州の南半分まで手に入れてしまった。アメリカは日本の勝利に愕然として勢いを恐れた。その後日本の敵はアメリカになっていくのだ。

日露戦争後、大韓帝国は日本の保護国となった。しかし統治能力を欠いた国情は如何ともし難く、併合や合邦などには反対していた初代統監の伊藤博文が暗殺される事件が起き、朝鮮は縮み上がった。日本の国論も併合に傾き、日本は主要な列強各国に承認を求めて朝鮮を併合することにしたのだ。

朝鮮の併合は日本の国力を失わせることになった。何もなかった半島には莫大な投資が必要だったからだ。結局生活インフラや病院、学校などを作り、奴隷を解放して国民教育を施したあげく、アメリカとの戦争に負けて日本は何もかも捨てざるを得なくなってしまったのだ。

日本にとって朝鮮は昔からやっかいな隣人なのである。



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Posted 2015年6月13日 by takamasa in category "歴史探訪

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