4月 27 2015

事故を起こす便利な物

福島原発の事故で脱原発や反原発などの提唱者が増え、日本の原子力研究は益々やりにくくなってきている。脱原発や反原発の提唱者たちは「危険だから」の一辺倒だ。村上春樹も「効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。」と自分のブログで述べている。

交通事故との比較でどっちが危険かという議論には、「数のトリックで論のすり替え」だとも言っている。 しかし原発事故が15万人の人々を不幸のどん底に堕とし、その犠牲に立つ効率の良い便利さなどは意味が無いと言うなら、交通事故の犠牲者をそのままに便利な効率にも意味は無いだろう。別にそのことに論のすり替えはない。

原発事故はたった1度でも甚大な被害が出る可能性がある。だから特別なことのように思える。そこで原子力の話になるとほとんどの人が思考停止に陥るのだ。しかし、そういう事故が起きるから危険で使用するべきではないという理屈なら、交通事故の危険性も無視などできるはずもない。

車だけではない。航空機も墜落でもしようものなら、搭乗客はほとんど死亡する。大型化する航空機は事故の被害者を大幅に増やす危険性があり、一度の事故で500人もの死者が出ることがあるのだ。だから航空機には絶対乗らないという人もいるくらいだ。例え航空機がとても効率が良く便利な乗り物であってもだ。

福島の原発は1971年から稼働し2011年に地震と津波によって冷却不能になり、放射能をまき散らした。その間40年、効率よく便利さを供給し続けた。一方、1971年から2011年の間、交通事故で死亡した人は延べ約30万人に及ぶ。死なないまでも重大な負傷を負った人々は約300万人もいるのだ。被害者ばかりではない。加害者になった人々で生き残った者は償いを一生続けることにもなる。被害者、加害者双方の家族も不幸を背負うことになる。その数はおよそ1000万人だ。

こういう不幸を毎日まき散らす交通手段を、便利だからと言って使い続けている事に意味があるかと、今まで訴え続けてきた人々がいたのだろうか。(ひょっとしたらいたかもしれない)

昭和45年(1970年)には1年間に16000人の交通事故死亡者が出た。当時余りに死者が多いので「交通戦争」と呼ばれていた。しかし車の台数は益々増え続けた。自動車産業は経済発展の基幹産業だったのだ。一方航空機はどうか。

1974年から2011年の統計では、航空機の事故が1300件起きている。大型機の事故は162件だという。事故の確率は1億回に1回だというから安全性は高いと言えそうだ。しかし大型機には500人もの客が乗る。墜落でもしたら例え1億回に1回の確率でもほとんどの乗客が死ぬことになる。日航機の御巣鷹山の事故では200人以上の乗客がほとんど死亡した。

村上春樹は今アメリカに住んでいるらしい。当然航空機に乗ってアメリカに行ったのだろう。ヨーロッパにも行くだろうから当然航空機に乗るはずだ。なぜだ。それが効率よく便利だからだろう。

村上は例え確率は低くても墜落でもしたら乗客の命はないような乗り物は使うべきではないと思っているのだろうか。それとも便利だから仕方なく死を覚悟して使っているのだろうか。是非聞いてみたい。

車は人間の能力を遙かに超えたスピードで疾走する乗り物だ。とても制御できるものではない。航空機は重力という自然界の力に逆らって滑空する。事故の半数が操縦ミスだ。原子力も完全な制御などとてもできない。それでも人類はそれらのパワーを利用することでより快適な生き方を追求している。それらを全て捨て去るのなら石器時代に戻るしかないだろう。だがそれは不可能だ。

そうであるならばとことんそれらの危険性に付き合うしかない。人類により快適な生き方をしたい欲望が有る限り、あらゆる危険性に立ち向かうしかないではないか。自動車に関する安全性や事故を起こさないための技術革新は日進月歩している。航空機事故も例えば日航機は28年間無事故だ。原発事故も福島以外の東北の原発は何事もなく自動停止した。だが危険性はゼロには決してならない。例え日本だけが安全になっても、周辺諸国はこれから益々危険になる。一国平和主義は夢想だと知るべきである。