Category Archives: 歴史探訪

0410月/17

日本という唯一無二の国

我が国は世界で唯一、2600年以上も君主の家系が途切れることなく続いている古代国家である。故に、その文化はどこにもない、どことも似ていない無二のものである。

第122代明治天皇が即位(1868年)して真っ先に行ったのは、香川県坂出市青海町にある白峰稜(崇徳天皇陵)に勅使を送ったことである。第75代崇徳天皇は1164年に崩御している。なんと700年も前に崩御した先祖の供養をしたのだ。

戦後の日本人は自国の歴史をまともに教えて貰っていない。従って、なぜ明治天皇が700年も前に亡くなった祖先の供養をしたのか知るものは少ない。ちなみに100年後の第124代昭和天皇も東京オリンピックの年(1964年)に崇徳天皇の供養をしているのも知らないだろう。

案外若い世代は崇徳天皇が日本の大魔王と言われていることをコミックやPCゲームなどで知っているかも知れない。夢枕獏の小説「陰陽師」にも大魔王・崇徳上皇が登場する。おそらく歴史ファンタジーの世界の話として知っているのだろうと思うが、嘘八百の韓国式歴史ファンタジーはともかく、崇徳大魔王の話は歴史的事実に基づいているのだ。

1156年後白河天皇と崇徳上皇の権力争いによる内乱が起きた。保元の乱である。原因は複雑であった。天皇家内部の権力争いと朝臣藤原家の対立に、武家の平氏や源氏の対立が絡まって起きた内乱である。乱は崇徳側が敗北し上皇は讃岐(今の香川県)に流罪となった。天皇が流刑になったのは400年振り、上皇側の武士が死刑になっているが、300年振りのことであった。

讃岐で上皇は仏教に帰依し、自分の血で160巻もの写経をして、戦死者の供養と乱を起こした反省を込めて寺に納めてくれるよう京へ送った。ところが後白河は呪いが込められているかも知れないとこれを拒否して送り返した。上皇はこれに激怒して舌をかみ切り、流れた血で、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と写経に書き込んで憤死したと謂われている。

しかし上皇が呪いをかけて憤死したという話は後の創作である可能性が高い。なぜなら、崇徳上皇の死が意識されるようになったのは20年後の1176年になってからだからである。

1176年建春門院、高松院、九条院が若くして相次いで亡くなり、翌1177年には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀という事件・動乱が次々に起こって、都では上皇の怨霊の祟りではないかと云われるようになったのだ。平安時代の貴族は天変地異が怨霊の仕業であると信じていた。当時の公家・吉田経房の日記「吉記」に、藤原教長が崇徳院と藤原頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されている。呪いのことも記されているのだ。

後白河天皇は教長の主張などに追い詰められ、1184年上皇を罪人とした保元の宣命を破却して、それまで讃岐院と呼ばれていた上皇を崇徳院と改め、頼長には正一位太政大臣が追贈された。これで崇徳院の怨霊は鎮まったかに思えたが、すでに武家による政治は目の前に迫っていた。つまり臣下である頼朝が権力を掌握し天皇親政から武家による幕府政治へ世の中は移っていったのだ。

平安貴族たちにとって臣下である武家が政治を司るという悪夢が始まって、これは怨霊の仕業に違いないと確信したのだ。それ以来崇徳上皇の怨霊は日本史上で最大の怨霊となったのである。少なくとも日本の貴族にとってその後の700年間は悪夢だったと云うことだ。

1867年徳川慶喜が大政奉還をした際には「保元・平治の乱以後武家に政権が移って以来、天皇の寵愛を頂いて政権を守って参りましたが、国難を招きましたことは私の不徳の致すところであります。ここに謹んで政権をお返しいたします。」と書いている。

慶喜が大政奉還をしなかったら、日本中で内乱になっていたに違いない。そうなれば外国の介入を招き日本は間違いなく外国の植民地になっていた。日本人が歴史を正しく認識し、海外の侵略から日本を守るために、日本本来の政治体制に戻すことが最善だと当時の日本人は考えたのだ。

従って、明治天皇は天皇親政が復権したことを崇徳院に報告し、今後は守り神として日本を守ってくださいとお祈りしたのである。そして天皇が独裁するのではなく、全ては公論で決めることや身分の上下を廃して、正しい政治をすることを祖先に誓ったのである。それが5箇条の御誓文である。ちなみに、それまで貴族の行列には庶民は土下座をしなければならなかったが、明治天皇は土下座令を廃している。

149月/17

光秀の謀反

最近、明智光秀が信長を襲った10日後に、反信長勢力の諸侯に宛てた直筆の手紙が発見されたそうだ。その内容は15代足利将軍の擁立に与するようにというものだったという。

光秀の信長暗殺の目的は足利幕府の再興だったわけだ。

信長が光秀をいじめたことが光秀謀反の原因だったなどと後世の人間は考えたが、江戸時代の小瀬甫庵が書いた「信長記」という小説がその元である。「桶狭間の戦い」も奇襲だったというのは甫庵の創作で、実際は信長に仕えていた太田牛一が書き残した「信長公記」に詳しい。信長は2千の部下を引き連れて正面から2万以上の今川軍に突撃したと牛一は書き残している。しかも今川軍は桶狭間山の尾根で休息中だったので、信長軍は山を駆け上がって攻めたという。突然の豪雨があったのは本当らしい。

後世の人間はその後の信長の戦を知っている。10倍の敵陣めがけて真正面から突撃するなど無謀な戦を信長がするはずはないと考えた。だから甫庵の書いた小説のほうが信じられてきたのだ。光秀に関しても、信長家臣の一番出世だったのに謀反を起こしたのは遺恨があったに違いないと考えた。甫庵が考えた信長の光秀いじめはそういう大衆の心理に大受けした。

歴史というものは後世の人間が信じ易いことを唱えた者が改変していくことが儘ある。為政者が意図的に改変することももちろん多いが、信じ難い偶然や運が良かっただけの結果があるものだ。戦なども勝てるはずの側が常に勝つとは限らないのが歴史である。

光秀の謀反もおそらくは朝廷が動いて信長の野望を阻止したものだと思う。朝廷は官位を一切受けなかった信長に危機感を抱いていたに違いないからだ。信長が少数の伴づれで京都に入った理由も朝廷の招きだったという説がある。

当時の信長はほぼ天下統一を果たして絶対権威になろうとしていた節がある。権威の中でも「暦」に関する決定権は朝廷にしかないのだが、その専権を信長は冒そうとしていた。信長の専横を甘んじて受けていた朝廷も最後の専権まで奪われそうになって反旗を翻したに違いない。光秀が選ばれたのも、元々勤皇でもあり足利将軍家の家臣でもあったからだ。私怨で謀反を起こしたわけではなかったというのが本当のところだろう。

しかし朝廷のそうした動きは秘匿されて表には決して出てこない。従って謎のままなのだ。

それにしても下剋上が常識的に通用していた戦国時代に、光秀の信長暗殺は裏切りと言われている。当時はどうか知らないが、後世の人間は信長の権威を認めて来たということだろう。