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光秀の謀反

最近、明智光秀が信長を襲った10日後に、反信長勢力の諸侯に宛てた直筆の手紙が発見されたそうだ。その内容は15代足利将軍の擁立に与するようにというものだったという。

光秀の信長暗殺の目的は足利幕府の再興だったわけだ。

信長が光秀をいじめたことが光秀謀反の原因だったなどと後世の人間は考えたが、江戸時代の小瀬甫庵が書いた「信長記」という小説がその元である。「桶狭間の戦い」も奇襲だったというのは甫庵の創作で、実際は信長に仕えていた太田牛一が書き残した「信長公記」に詳しい。信長は2千の部下を引き連れて正面から2万以上の今川軍に突撃したと牛一は書き残している。しかも今川軍は桶狭間山の尾根で休息中だったので、信長軍は山を駆け上がって攻めたという。突然の豪雨があったのは本当らしい。

後世の人間はその後の信長の戦を知っている。10倍の敵陣めがけて真正面から突撃するなど無謀な戦を信長がするはずはないと考えた。だから甫庵の書いた小説のほうが信じられてきたのだ。光秀に関しても、信長家臣の一番出世だったのに謀反を起こしたのは遺恨があったに違いないと考えた。甫庵が考えた信長の光秀いじめはそういう大衆の心理に大受けした。

歴史というものは後世の人間が信じ易いことを唱えた者が改変していくことが儘ある。為政者が意図的に改変することももちろん多いが、信じ難い偶然や運が良かっただけの結果があるものだ。戦なども勝てるはずの側が常に勝つとは限らないのが歴史である。

光秀の謀反もおそらくは朝廷が動いて信長の野望を阻止したものだと思う。朝廷は官位を一切受けなかった信長に危機感を抱いていたに違いないからだ。信長が少数の伴づれで京都に入った理由も朝廷の招きだったという説がある。

当時の信長はほぼ天下統一を果たして絶対権威になろうとしていた節がある。権威の中でも「暦」に関する決定権は朝廷にしかないのだが、その専権を信長は冒そうとしていた。信長の専横を甘んじて受けていた朝廷も最後の専権まで奪われそうになって反旗を翻したに違いない。光秀が選ばれたのも、元々勤皇でもあり足利将軍家の家臣でもあったからだ。私怨で謀反を起こしたわけではなかったというのが本当のところだろう。

しかし朝廷のそうした動きは秘匿されて表には決して出てこない。従って謎のままなのだ。

それにしても下剋上が常識的に通用していた戦国時代に、光秀の信長暗殺は裏切りと言われている。当時はどうか知らないが、後世の人間は信長の権威を認めて来たということだろう。