Monthly Archives: 11月 2014

2911月/14

韓国が擦り寄った?

あれほど反日に狂っていた朴大統領が”にこやかに安倍首相と手をつないでいた”とニュースになった。

不思議ではない。朝鮮人とはそういう民族なのだ。

朝鮮人がなぜ自国の歴史を捏造するかと言えば、彼の国には誇れる歴史などないからだ。1000年以上の歴史で、朝鮮人は中華に媚び、属国として虐げられることに甘んじてきた。半島にある国の地政学的宿命でもあった。古くは三韓時代、高句麗は軍事大国であったが故に、横暴な中華に互して独立を保っていた。ところが新羅が唐朝と結託して高句麗を挟み撃ちにし、百済も滅ぼして半島を統一した。この時に朝鮮人は自国の歴史を捨て去ったのだ。現在の朝鮮人の名前は、統一新羅が自らの名前を唐風に変えてしまった名残なのだ。統一新羅は全てを唐風にして中華の一員になった。この時以来、朝鮮人は自国の民族性よりも、中華の一員という名誉を我が物としたのだ。

朝鮮人の事大主義は、あまりにも周辺国が理不尽に惨かった所為である。朝鮮人は虎の威を借りなければ生きられなかった。その後高麗が王朝を築くが、中華が元朝になると、抵抗も空しく屈服させられた。元朝は殊の外朝鮮には惨い圧政をした。貢ぎ物に多数の処女を要求されたという記録もある。そのため高麗は国内に結婚禁止令まで出して、処女狩りをしたという。

元朝が日本に攻め込んだ元寇の主力は高麗軍であった。高麗軍は世界に冠たる大国元朝の威を借りて、その戦い方は無残この上ないものだった。日本人にはとても真似の出来ない惨い殺し方をしたのだ。手足をバラバラに引き裂く、内臓を引きずり出す、鼻や耳を削ぎ、性器を切り取ったりなどは支那人の得意技だが、朝鮮人も全く同じ事をしたのだ。

元が滅んで明朝が誕生すると、またまた朝鮮には裏切り者が出現した。高麗の将軍だった李成桂が明と結託して、高麗王朝を乗っ取るクーデターを起こした。李成桂は高麗王を廃して自ら即位する。明から朝鮮の国名を承認してもらい、李王朝が誕生した。李成桂の息子たちは、血で血を洗う権力闘争を繰り広げた。その後500年間、李王朝は儒教を国教として、仏教を迫害し、漢字を国語とする中華の奴隷に落ちた。

4世王が起こしたという庶民ためのハングル文字も、所詮女子供の文字として差別されたため全く普及しなかった。あくまで漢字が国語であった。しかし漢字を読み書きできるものは貴族階級者だけで、国民の8割が文盲だったのだ。李朝は極端な儒教社会だったために、階級制度が峻烈を極めた。ほんの1割にも満たない貴族階級が君臨し、国民の半数が奴隷階級だったのだ。奴隷には私的なものと公的なものがあった。もちろん奴隷は売り買いの対象だった。同族を奴隷として殺生与奪を思うままにした民族は朝鮮族以外にはいない。朝鮮の奴隷階級が解放されたのは日韓併合の時代なのである。

こういう歴史はとても誇れるものではない。朝鮮人が自国の歴史を捏造するのも宜なるかな。歴史の捏造もさることながら、強きを助け弱きを挫くのも朝鮮人の習性だ。朝鮮人は中華という無慈悲な国に虐げられてきたために、強きに逆らうことは即死ぬことだったのだ。弱いことは悪なのである。弱者は差別の対象でしかない。日本人とは文化が違いすぎるのだ。

2311月/14

言論の自由

日本は自由で民主的な国である。天皇という君主を頂き万民平等な国だ。

しかし言論の自由を守るのは自由主義者だけである。社会主義者(共産主義者)や民族主義者は言論の自由を守ろうとはしない。自分の意見は主張するが異論を許さない発言をしばしば行う。差別反対の論を張り、反論者を誹謗して差別する人権擁護論者に似ている。原発稼働反対論者の中には稼働推進論者に対して人非人のごとき誹謗を浴びせることがある。憲法改正を主張するものを好戦的などと云うのと似ている。

日本では共産主義者や社会主義者、または右翼民族主義者はとかく、自分たちの論に反対するものを排除しようとする。絶対正義を信じるせいだろう。「だめなものはだめ」と云って話し合いに応じようとしなかった旧社会党の故土井たか子元党首などは言論の自由否定論者だ。国会議員にあるまじき考え方である。話し合いをしない議員など無用の長物でしかない。

日本人の大半が自由主義者で言論の自由や思想の自由を認めているのを良いことに、反社会的思想や自分だけ言論の自由を主張する絶対正義主義者などがはびこっているのが現状である。憲法改正問題、集団的自衛権問題、原子力活用問題などは、感情や思想で語るべき問題ではない。純粋に専門的理論と専門的技術的な見地から論じて検討するべき問題である。

政治や外交などに一般国民が関心を持つのは必要なことである。自由な意見や見解を持つのも自由である。しかし自分の意見とは違う意見を認めないとか聞かないというのは、傲慢不遜と云うべきで、自由を認める日本には相応しくない。そういう意味では左翼も右翼も全く同じである。此の世に絶対正義など存在しないのだ。

歴史的に戦争は絶対正義の対立であった。存在しないものを互いに主張するから戦争になったのだ。

日本という国は古代から話し合いで何事も解決してきたとされている。ところが話し合いだけでは解決しないこともある。そういうときは日本人は放置することが多い。何もしないという処置をするわけだ。やがて時間が経って考えも変わる場合もある。状況が変化して知られていなかった事情がわかってくると云うこともある。それから話し合えば解決することもある。理論だけでは処理しないのが日本人だと云える。だが互いに相手の意見を無視したり、抹殺したりしては次の話し合いができなくなる。怨念を残してはならないのが日本人流なのだ。言論の自由とはそういうことも含めた意味があるのだ。

国土防衛などは戦争の是非とは別の問題だ。国土防衛は課題であり、戦争は手段の一つでしかないからだ。エネルギー問題も原子力活用とは別の問題である。発電するのに水力や火力が原子力より良いかどうかは検討するべき事で、最初から原子力がだめというのは暴論である。憲法改正も検討する問題で、改正を否定するのはこれも暴論でしかない。

とかく憲法改正や原発に反対する論には、検討もしない、考えもしない、最初から結論を出して反対のための反対をしている論が多い。これすなわち共産中国や海外勢力の思惑が根底にあるのだ。そこに気づいていない国民は多いだろう。反対を煽るマスコミは確信犯もいるが、これも気づかずに脳天気なだけの論もある。現代は情報が多すぎて取捨選択を誤ると戦争になってしまうことだってあり得る。共産中国のように侵略的意思を隠さないような野蛮な国が隣にいるのだ。感情論では平和は崩れるのが歴史的事実だ。

頼朝を哀れに思って助けた清盛は源平対立を生み頼朝に滅ぼされた。豊臣を滅ぼした家康はその後260年間の平和をもたらした。国政や外交は感情論では処理できない。個人的にはいくらでも感情に走るが良いが、国政は時に手練手管を使うべきである。清廉潔白で無能な政治家など国政には必要ない。